デザインのできることとできないこと-World IA Day Tokyo 2016に参加して


WIAD 2016 TOKYO JAPAN

Information Architecture Instituteが主宰するWorld IA DayのTokyoに参加してきました。今年のローカルテーマとしてはイーライ・パリサーが著書「閉じこもるインターネット――グーグル・パーソナライズ・民主主義」で主張した「フィルターバブル」の問題についてでした。

コンセントの長谷川さん、スマートニュース編集長の松浦茂樹さんや、ニュースピックスでインフォグラフィックス・エディターを務める櫻田潤さんらが講演を行い、またリクルート/Mediumの坂田さんを交えて、山本郁也さんのモデレートのもとトークセッションが行われました。

フィルターバブルについてざっくり言うと、Googleの検索結果やFacebookのタイムラインにおけるパーソナライズが、個々のユーザーの情報環境を分断し、結果的にコミュニケーションの断絶、新しい情報との出会いの減少、ひいては民主主義の危機までをも招くという問題意識が表明されました。

長谷川さんによれば、大学で教えられている学生さんと話していても、GoogleやFacebookのパーソナライゼーションや、その結果としてのアクセスできる情報の偏りには無自覚だという懸念が挙げられていました。

しかし、僕は講演やセッションを聴いていて、根本的にこのフィルターバブルという問題に違和感を感じました。フィルターバブルを作り出している具体例として、GoogleやFacebookやAmazonが挙げられていましたが、自分の感じ方としてはこれらが存在することで新しい情報に出会う機会は増えても、そうした機会が減っているとは感じないためです。

問題は、フィルターについて議論している時に、フィルター前の情報の絶対量や、フィルター後の選択の幅を考えなければ、全体としての情報アクセスの良し悪しは言えないという点が見過ごされていることです。実際、下記の @securecatさんのツイートによれば、インターネットの普及と前後して、平均的に消費される情報の絶対量は33倍、選択可能な情報量に至っては530倍というデータがあるそうです。

こうした状況を考慮すると、フィルターバブルについての問題意識の原因を、GoogleやFacebookといった情報システムの側、ひいてはその中で情報設計という部分を担当するIAに帰するのはあまり説得力がないと思います。むしろ、受け手側の意識やリテラシーの問題の方が大きいと言えます。

(2016/2/21追記)英語版Wikipediaの「Filter bubble」の「Reactions」の節:Googleの検索結果などについての学術的な検討によれば、パーソナライゼーションにより生じる差異は軽微であり、また個人のプロファイルに基づく音楽レコメンデーションサービスなどでも選好の偏りではなくむしろ発見の広がりを促す効果が見られたとの事例が紹介されています。

登壇者の皆さんからも、IAの立場からそうした受け手に対する啓蒙や、フィルターの設計について理解できるよう表現すべきという意見は出ました。そうした努力は望ましいものではありますが、一方でそもそもの興味関心や意識が低い受け手に対してどれくらい有効性があるのかは大きな疑問があります。教育や業界団体の倫理規定の制定など、実務の外のアプローチが必要でしょう。

金づちを持っていると全てが釘に見える、というアフォリズムがあります。最近デザインの業界の集まりなどに参加して感じるときがあるのですが、デザインを生業にする人間としてはあらゆる問題に対してデザインで解決策を見つける、あるいはデザインが社会に対して全般的な責任を負っているように思ってしまうことがあります。

しかし、事業活動の中だけで考えても、デザインはその構成要素の一つでしかありません。だいたい実務の現場で、デザイナーが意思決定の権限を持っているということは稀です。ビジネスオーナーや、場合によっては実装の担当者などの持っているインフルエンスの方が大きい場合は多々あります。そうした中で、デザイナーが持てる権限と責任の現実的な範囲というものがあります。

ここまで読まれて、僕がデザイナーという職能を悲観的に考えていると思われるかもしれませんが、それは全然違います。むしろデザインが担える役割というものは一般に過小評価されていると思います。しかしそれは、現実のプロダクトやコンテンツを通じて達成できるものです。そこの線引きなしにデザインにできることを過大に捉えるのもまたどうかと思ってしまうわけです。